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浅草橋》篠塚稲荷神社(しのづかいなりじんじゃ)と石塚稲荷神社(いしづかいなりじんじゃ)から垣間みる柳橋花柳界の名残。

2014/12/09  

柳橋は、明治時代「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称され、
人気の花街として、大変賑わった場所です。
花街には、神社、甘味処、料亭がかかせないと、ある建築家が言っていましたが、
ここ柳橋界隈にも、小さいな神社が二つ祀られています。

一つ目は、「篠塚稲荷神社(しのづかいなりじんじゃ)」

最寄駅は、JR浅草橋駅です。
浅草橋のメインストリート、江戸通りを馬喰町方面に向かい、
浅草橋一丁目の交差点を左に折れ、柳橋篠塚通りに入ると、すぐ、
「篠塚稲荷神社(しのづかいなりじんじゃ)」が見えてきます。005_r

創建年代は不詳です。神社内の社歴によると、
1346年から1369年(正平年間)に、
新田義貞(にったよしさだ)の家臣で、四天王の1人、篠塚伊賀守重廣(しのづか いがのかみ しげひろ)が
当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになったそうです。

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そして1681年(延宝9年)には篠塚山玉蔵院宗林寺というお寺になりましたが、
明治維新の神仏分離令では、廃寺という運命をたどりました。
大正時代に入ると、今度は、寺子屋としてこども達を見守りましたが、またもや廃校となり、
現在は、篠塚稲荷神社だけが残されています。

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祭神は、倉稲魂命。
氏子地域は、柳橋1丁目、浅草橋1丁目と、とても小さいですが、
2月の節分祭や6月初旬にある例大祭には、人出も多くなり、にぎやかな瞬間をむかえます。

神社を囲む玉垣には、「亀精楼」、「柳光亭」などの料亭の他に
日本相撲協会「横綱朝汐太郎」、日本舞踊花柳流の名跡「花柳章太郎」と、
花街であったことの情緒を感じとることができます。

二つ目は、「火伏神(ひふせがみ) 石塚稲荷神社(いしづかいなりじんじゃ)」
篠塚稲荷神社前の道を隅田川に向かってすすんだ後、
柳橋大川端通りにぶつかったところで、左に折れ、直進していくと、
右手に、見過ごしてしまいそうなほどちいさな鳥居をみつけることができます。
御祭神は、倉稲魂命。
料亭の多かったこの界隈を火事から守る役割を果たしていました。
この辺りの料亭では、その昔、石塚稲荷のお札を授かり、調理場に貼る事で、火事から守ってくれていたのだそうです。
確かに実家の台所にも、どこかの神社のお札が貼ってあったなぁと思い出しました。

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この神社を創建したのは、浅草御蔵前元旅籠町(あさくさおくらまえもとはたごちょう)の居住者有志ですが、年代は不明です。
確かなことは、1688年(元禄元年)からこの地に祀られている事。

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小さな鳥居前の玉垣には、むかって左側から、柳橋料亭組合の文字を筆頭に、
「亀精」、「柳光亭」など、数多くの料亭の名が刻まれています。
これらは、隅田川を背にして並ぶ料亭の実際の並び方にほぼあわせて配列されているそうです。

「亀精」とは、柳橋のほとりに建つ料亭「亀精楼」のことです。

「亀精楼(かめせいろう)」は創業1854年(安政元年)、
創業者の亀屋清兵衛(かめやせいべえ)が人気料亭だった「万八楼(まんぱちろう)」を買い取って改名した、柳橋に残る料亭です。
老舗ということで、伊藤博文などの有名人も利用しており、
森鴎外の「青年」や永井荷風の「牡丹の客」などの文学作品にも登場します。
場所柄、角界との関わりも古く、横綱審議会もここで行われているのです。

右側には、
柳橋芸子組合とはじまり、芸子さんと思われる名前が、赤く彫られています。

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神社の中は、とても狭く、造りもシンプルです。
玉垣やお狐様以外は、新しく建て替えられたばかりのようにも感じます。
稲荷ということもあり、本殿の両側には、お狐様が2体、りりしく鎮座。
苔むした土が、凛とした雰囲気を醸し出しています。

篠塚稲荷神社と石塚稲荷神社。
この二つは、玉垣を観察しただけでも、
花街としての営みをふんだんに感じることができますね。

「お白粉(おしろい)の風薫るなり柳橋」

これは正岡子規が柳橋を詠んだ春の句のひとつです。
賑わいをみせていた頃の、花街「柳橋」は、艶やかな時を静かに刻み続け、
今もこうして、街のあちこちに当時の名残を残しているのです。

石塚稲荷神社
住所台東区柳橋1-1-15
駅・アクセスJR総武線・浅草橋駅
篠塚稲荷神社
住所台東区柳橋1-5-1
駅・アクセスJR総武線 浅草橋駅、都営浅草線 浅草橋駅 徒歩5分

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