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秋葉原》幅数十センチ!秋葉原の暗がりをくぐり抜けると神社が見えました。“Otaku” の聖地で見つけた「花房稲荷神社(はなぶさいなりじんじゃ)」

2015/03/31  

JR山手線 秋葉原駅の電気街口を出て「中央通り」へ。中央通りを4分ほど北上すると「ドン・キホーテ秋葉原店」が見えます。そのかどを右に折れ、路地を少し歩くと、左手に「花房稲荷神社」につづく道(ビルの隙間)があります。

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戦後の闇市(やみいち)にルーツがあり、世界有数の電気街から今やオタクの聖地と進化し続ける都市アキバ。その中央通りから道一本隔てた路地の奥に息をひそめるのが「花房稲荷神社(はなぶさいなりじんじゃ)」です。


ここは雑居ビルが凸凹と立ち並ぶエリア。花房稲荷神社に続く道は「アニメ」や「パソコン」の文字が躍る路地にあります。サラリーマンや学生が行き交う中、この隙間に視線を向けているのは私たちだけ。喧騒を背に神社を目指します。

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一人がやっと通れる通路に、歪(いびつ)な足下。壁が頭上を覆い、塩ビのパイプが這っています。この先に神社があるとは想像しがたいです…。

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薄暗い路地を抜けると狭小な土地にお堂がそっと佇んでいました。ぽっかり開いた空から光が差し込み、空気はしんと静まり返っています。
とはいえ目前には高層ビルが構え、裏手では建築工事が行われています。周りの開発された景色が、この場所の静けさを際立たせているようです。

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房状に群がり咲く花を「花房」といいますが、この神社がその名を持つまでに一つのエピソードがあります。その歴史は江戸時代まで遡ります。一説によると1734年(享保19年)より存在したという「神田花房町」。しかし神田花房町の町域を調べてみても、花房稲荷神社の場所とは一致しません。当時は今より南部、神田川をまたいだ先に存在したようです。

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江戸時代といえば「火事とケンカは江戸の花」と詠われるほどに火事が多く、この界隈も火災に悩まされました。1793年(寛政5年)、湯島(ゆしま)の無縁坂(むえんざか)から出火した大火で神田川周辺にあった町が類焼し、一部が火除地(ひよけち)となりました。当時、神田花房町も一部が焼けたそうです。

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翌年、大火の被害を受けた人々は旗本(はたもと)永井伊織(ながいいおり)の屋敷跡を代地として与えられました。屋敷跡は現在の外神田四丁目にあたり、花房稲荷神社の建つ地域。この土地に元来の花房町住民が移転してきたため「神田花房町代地」と呼ぶようになったそうです。

「花房稲荷神社」の謂れには、江戸の大火、それに町や住民の大きな移転が関係していたのですね。火事が絶えない時代に、花房稲荷神社は火除けを祈り造営されたのかもしれません。

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この神社が祀るのは稲荷神(いなりしん)です。およそ3万社あると言われる稲荷神社。花房稲荷神社はその一つに過ぎませんが、江戸時代よりこの地を鎮守(ちんじゅ)する稲荷神に、人々は家族の息災を祈願されたことでしょう。

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その後、1947年(昭和22年)千代田区に属すると神田田代町と改称され、さらに1964年(昭和39年)に住居表示が実施されると、現在の町名「外神田四丁目」になりました。もとは屋敷跡だったこの地。人々の移転とともに賑わい、町が発展していく様子が目に浮かびます。いまや外国人もゆきかう観光都市です。

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榊(さかき)とお酒のお供えがされていました。

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このように小さな神社は地域の人々が「氏子(うじこ)」となってお世話をしています。私たちが参拝した日もお供えがされており、地域住民によって手厚く守られている様子がうかがえました。

帰り際にこんな張り紙を見つけました。
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秋葉原らしいイラストが印象的。神社の周辺には民家があります。お参りの際はしずかに通り抜け、ゴミを捨てたりするのはやめましょう!

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江戸の世に建てられた花房稲荷神社。時代の移ろいとともに秋葉原の風景は様変わりしましたが、今も地域の人々によって手厚く祀られています。

その行方に思いを馳せるほどにディープな神社。武士の時代から激動の時代を経て今に至る歴史そのものが、この地の鎮守である証。大切にされてきた証拠です。

まちゆく武士が、サラリーマン・学生に、
近頃はメイドや外国人も歩く都市。
その片隅の凛とした姿に『粋(すい)』を感じる、
そんな神社でした。

花房稲荷神社
住所東京都千代田区外神田四丁目4-5
駅・アクセスJR秋葉原駅 徒歩7分


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