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清澄白河》隅田川に架かるドイツ・ケルンの景色。隅田川架橋群(すみだがわかきょうぐん)の美人、「清洲橋(きよすばし)」。

2015/08/04  

都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線「清澄白河駅(きよすみしらかわえき)」B1出口を出て、清洲橋通りを隅田川方面へ向かって歩くと「清洲橋」が見えます。

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「女性的」と表現されるしなやかな曲線は、近くで見るとかなりの迫力。塗装は欄干(らんかん)から橋灯(きょうとう)まで鮮やかなブルー。全長186mの大きな橋ですが、橋桁は平たくすっきりしています。

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大正から昭和初期にかけて、土木建築の主力だったリベット接続。現在なら溶接で取り付けるのでしょうが、このデコボコにはモダン建築ならではの愛嬌がありますね。

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清洲橋が竣工した1928年(昭和3年)は関東大震災復興の真っ只中で、隅田川にはたくさんの橋が架けられました。

どの橋も明治期の隅田川橋梁(すみだがわきょうりょう)には見られなかったデザイン。構造もそれぞれ異なり、当時の最新技術がうんと使われました。

下流から順番に相生橋(あいおいばし)、永代橋(えいたいばし)、清洲橋、両国橋、蔵前橋(くらまえばし)、厩橋(うまやばし)、駒形橋、吾妻橋(あづまばし)、言問橋(ことといばし)の九橋が架橋し、震災に耐えた新大橋を加えて隅田川十橋とも呼ばれます。

清洲橋の場所には震災まで橋がなく、その名は深川 “清” 澄町と日本橋中 “州” 町を結んだことに由来します。

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復興局の清洲橋設計計算書には『周囲の風光に調和し、また永代橋の拱橋(きょうきょう)には反対なる優味を有する吊橋を配するは、最も当を得たるものであろう。』とあり、永代橋を意識していたことが分かります。

筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)の永代橋に対して、すらっとしたプロポーションの清洲橋。相反するデザインを隅田川が結び、帝都の門を華やかに演出したのです。

今は首都高が遮っていますが、当時はお互いによく見渡せたんだとか。

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清洲橋のモデルとなった、ドイツ・ケルン市のヒンデンブルグ橋。第二次世界大戦で壊されてしまい、現存していません。
※Wikipediaより引用

はじめは日本独自の構造も模索したようですが、最終的にはドイツの先進事例が参考にされました。

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吊り橋といえばワイヤーを張るのが一般的ですが、清洲橋が採用したのは鋼製チェーン。橋台がない「自碇式吊橋(じていしきつりばし)」も日本ではちょっと珍しい構造です。

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桁裏は羽根状の銅材が連なり、丸っこい支承(ししょう)によって支えられています。川面から見上げても美しく設計されているのは、船運(しょううん)が盛んだったためでしょうか。

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橋の設計に関わった「分離派建築会」はこれまでにないデザインを生み出そうと、建築の芸術性を主張したグループです。ドイツのケルン橋をモチーフにしたのは、彼らがウィーン分離派やドイツの表現主義の影響を強く受けていたからかもしれません。

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メンバーのひとり、山田守は逓信建築(ていしんけんちく)のパイオニアであり、曲線を使った個性的な作品を残しています。

1926年(昭和元年)に永代橋、1927年(昭和2年)に聖橋(ひじりばし)、1928年(昭和3年)に清洲橋と、震災後の復興橋梁(ふっこうきょうりょう)に大きく貢献した建築家でもあります。

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もうひとり、山口文象(やまぐちぶんぞう)はモダニズム建築家として知られています。

彼もまた震災復興橋梁で活躍し、東京や横浜で多くの橋を手がけています。清洲橋については『橋桁と歩道部分の構造について、薄く見せるために苦労した。』と話したそうで、意匠設計者とエンジニアが力を合わせて取り組んだ様子が分かります。

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近代建築の名手が手がけた清洲橋は、世界を追いかけて、日本の橋梁技術に弾みをつけた隅田川震災復興橋梁のシンボル的存在です。

造形の美しさもそうですが、日本の技術力の象徴として復興を願う人々の心を明るくさせたからこそ、「震災復興の華」と呼ばれたのではないでしょうか。

清洲橋
住所〒103-0008 東京都中央区日本橋中洲
駅・アクセス都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線 清澄白河駅 徒歩8分


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