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清澄白河》葛飾北斎や歌川広重も描いた萬年橋(まんねんばし)は、江戸の歴史と文化を形づくる「元番所(もとばんしょ)のはし」です。

2015/08/13  

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都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線「清澄白河駅(きよすみしらかわえき)」A1出入口から、すぐ右の角を曲がり、小名木川(おなぎがわ)添いに西へ5分ほど直進すると、右手に「萬年橋(まんねんばし)」が見えます。

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萬年橋は、小名木川が隅田川に流れ込む手前に架けられた全長約57mのタイドアーチ橋です。タイドアーチ橋とは、アーチを二重に重ねてトラスで結合している橋のことです。

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小名木川に架けられた橋は、いずれも船の航行を妨げないように橋脚を高くしており、その中でも萬年橋は特に大きく高く虹型に架けられていました。その優美な姿は人々に愛され、日本の代表的な浮世絵師達も萬年橋の姿を作品に描いています。

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ゴッホ、モネ、ゴーギャンなどの世界で有名な画家に影響を与えた浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)は、風景画「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」のなかで「深川萬年橋下」としてとりあげています。

江戸時代の深川は新興地ゆえの自由さがあり、新しいものがどんどん出来る、いきいきとした街だったようです。萬年橋の上も通行人で賑わっています。
小名木川は海抜が低いこともあり、洪水対策のために両岸の石積を高くしたといいます。高い橋の上から、川を覗きこむ人々。流れる船の先端が指す先には、橋と川の間からのぞく富士山が見えています。

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江戸時代初期、幕府は物資流通の重要な水路であった小名木川河口の萬年橋に「川船番所(かわふねばんしょ)」をおき、小名木川を通る人と出入りする船や荷物を取り締まりました。

小名木川は江戸城を造る石や材木はもちろん、魚、米、野菜その他、全国からの物資の輸送に重要な役割を果たし、江戸幕府の物流における大動脈となりました。

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葛飾北斎と同じく、浮世絵師の代表的な存在である歌川広重(うたがわひろしげ)も「名所江戸百景」の中で「第56景 深川萬年橋」を描いています。

桶に吊り下げられているのは、「放生会(ほうじょうえ)」のために売られている“亀”。「放生会(ほうじょうえ)」とは、捕獲した魚や鳥獣などの生き物を逃がしてやり、殺生を戒める儀式です。江戸でもお盆が来ると、亀を川に戻してあげる風習がありました。その頃の放生会は、儀式というよりも民衆の娯楽としての意味合いが強かったそう。

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現在の「萬年橋」という名前は、隅田川にかかる永代橋(えいたいばし)になぞらえて末永く残るようにと思いを込めて名付けられました。

葛飾北斎の「深川萬年橋下」と違い、「第56景 深川萬年橋」は萬年橋の全体像が描かれていません。ですが、日本のことわざ「鶴は千年、亀は万年」と掛けて亀を描くことで、見た人に“萬年橋”だと思わせる…そんな歌川広重の遊び心と、縁起の良さを感じる作品です。

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萬年橋が架橋された年代は定かではありませんが、江戸時代の1647年(正保4年)に深川番の任命が行われていることから、この頃には既に架けられていたことがわかります。

船番所は明暦の大火後の江戸市街地の整備拡大に伴い1661年(寛文7年)に中川口へと移されたため、萬年橋は「元番所のはし」と当時呼ばれていたようです。1680年(延宝8年)の江戸地図にも萬年橋は「元番所のはし」として記載されています。

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萬年橋を渡りきった先の左手には「ケルンの眺め」というスポットがあり、そこではドイツのケルン市のライン川にかかるつり橋をモデルに作られた「清洲橋(きよすばし)」が一番美しく見えるといわれています。案内板には、ドイツ語でも説明が書かれていましたよ。

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萬年橋は江戸期を通じて4回の開架があったとされていますが、定かではなく、1923年(大正12年)の直前には木橋が架けられていました。震災時も被害を受けたものの耐え切りましたが、老朽化とあわせて震災復興計画により1930年(昭和5年)に現在の橋に架け替えられました。

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葛飾北斎や歌川広重にも描かれ、物資の輸送経路の要として、粋で人情あふれる深川まちを形づくってきた萬年橋は、2004年(平成16年)、江東区都市景観条例に基づく「都市景観重要建造物」に指定されました。

一本の橋ながら、江戸の歴史、文化、さらにはドイツ・ケルンの眺めまで楽しむことができる萬年橋は、まちのシンボルとして今も昔も人々から愛され続けています。

萬年橋
住所〒135-0024 東京都江東区清澄1丁目
駅・アクセス都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線 清澄白河駅 徒歩8分


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