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八丁堀》花の都、パリからの客人「メッセンジャー」。「中央大橋(ちゅうおうおおはし)」からスカイツリーを望む銅像は、東京とパリをつなぐ友好の証。

2015/11/24  

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東京メトロ日比谷線、JR京葉線 八丁堀駅B4出口を出て目の前にある高橋を渡り、新川二丁目交差点を右手へ曲がって八重洲通りを道なりに進んでいくと、中央大橋が見えてきます。

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橋長210.7m、幅員25.0m。1993年(平成5年)8月26日、お台場のレインボーブリッジと同日に竣工されました。隅田川に架かる橋の中では2007年3月竣工の「新豊橋(しんとよはし)」、2006年2月竣工の「千住汐入大橋(せんじゅしおいりおおはし)」に次いで3番目に新しい橋です。

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白く巨大な三角形を描くような橋柱は、まるで水の上にそびえ立つタワー。主塔から橋桁にケーブルを張って支える斜張橋(しゃちょうきょう)ならではのシンプルかつスタイリッシュな外観は、周囲の高層ビル群のなかでもよく映え、近未来的です。

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しかし、デザインのモチーフはなんと「兜(かぶと)」。1989年(平成元年)、隅田川とパリのセーヌ川が友好河川を提携したことにより、フランスの会社に設計を依頼したそうです。日本の伝統を意識しながら現代の都会的な景観に合うフォルムを作り出せるのは、外から日本を見ることのできる視点があってこそなのかもしれません。

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二本の橋柱が交わる箇所にケーブルがまとめられたファン型構造のため、まるでお箏(こと)の弦を張る柱(じ)のようにもみえますね。

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欄干も主塔と同じデザイン。

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中央大橋は中央区新川の「霊巌島(れいがんじま)」と、「佃島(つくだじま)」の北部とをつないでいます。佃島側の橋のたもと、現在は佃二丁目と呼ばれる場所は、江戸時代初期までは「鎧島(よろいじま)」と呼ばれ、元々佃島と呼ばれていた現在の佃島西部とは独立した別の島でした。その「鎧島」の名に合わせて、橋のデザインのモチーフが兜になったとも言われています。

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鎧島は1600年代前半の寛永年間(かんえいねんかん)に、江戸幕府の船舶管理と海上運輸をつかさどる役職、船手頭(ふなてがしら)の武士であった石川八左衛門(いしかわはちざえもん)が屋敷を立てたことから「石川島」と呼ばれるようになりました。そして江戸時代後期、埋立てによって現在のように石川島は佃島と地続きになり、佃島の地名だけが残りました。

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1853年(嘉永6年)、旧石川島に水戸藩によって造船所が設けれましたが、これが第二次世界大戦後「石川島重工業」と改名し、さらに1960年(昭和35年)、「播磨造船所」との合弁会社「石川島播磨重工業」が設立。会社はその後移転したため、跡地は1986年より「リバーシティ21」と呼ばれる超高層住宅へと再開発されました。

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「リバーシティ21」の開発に合わせて、中央大橋の架設が決まったのです。請け負ったのはかつて地縁のあった石川島播磨重工業の横浜工場でした。社名は「IHI」に改名され、現在は佃島の豊洲運河を挟んで対岸、豊洲に本社をかまえています。こうして「石川島」の名は、佃島の豊洲運河岸にある石川島公園に残るのみとなりました。

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中央大橋を霊巌島から佃島の方へ渡ると、左手側が隅田川の上流になりますが、ライトブルーの緩やかな弧を描く永代橋の後ろに東京スカイツリーが綺麗に見渡せます。

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その美しい景色を見つめるように、橋のちょうど中ほどに立っているブロンズ像があります。「メッセンジャー(Le Messager)」という名で、隅田川・セーヌ川の友好河川提携の折、記念として当時のパリ市長であったジャック・シラク(Jacques Chirac)氏から贈られました。
隅田川には鉄道橋を含めると30以上もの橋がかかっていますが、その中でもこのような像があるのは中央大橋だけです。

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「メッセンジャー(Le Messager)」は、体の前で曲げた右腕の上にパリ市の紋章である帆船を抱いています。希少木材を求めて海外に船を派遣するフランスの守護神を表しています。

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作者はオシップ・ザッキン(Ossip Zadkine)。1890年、旧ロシア領のベラルーシに生まれ、1900年代中頃までフランス・パリで活躍したパリ派の彫刻家であり、画家でもありました。「メッセンジャー」は1937年、ザッキン47歳の時に製作した木造彫刻で、同年開かれた「パリ万国博覧会」に出品され賞賛を浴びました。

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オリジナルはブロンズ像ではなかったのです。ザッキンはパブロ・ピカソとも交友があり、ピカソが創始したキュビズムの彫刻家として有名でしたが、黒人彫刻の影響も受けており、いきいきとした生命力に溢れた独自の造形を生み出しました。「メッセンジャー」もそのひとつ。特に右足の角張った大胆なラインに、木造彫刻ならではの力強さを見ることができます。

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1937年のパリ万博で高い評価を受けたことにより、「メッセンジャー」は郵政省やセーヌ川沿いのホテルなどからオーダーを受け、彫刻や像だけでなくセラミック製のパネルやレリーフとしても作成されました。また、セーヌ川に架かる「アレクサンドル3世橋(Pont Alexandre III)」のたもとに、中央大橋と同じブロンズ像も立っています。「メッセンジャー」はセーヌ川沿いに暮らすパリの人々に愛されている作品なのです。

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また、ザッキンは親日家としても知られていました。彼と同時期にパリで活躍した日本の西洋画家、藤田嗣治(ふじたつぐはる)との交友があったためです。藤田は日本で西洋画を学びましたが、黒田清輝(くろだせいき)らによる印象派や写実主義の技法ばかりがもてはやされていたことに失望し、1913年に渡仏してピカソやザッキンらパリ派の芸術家と交友を深めていました。

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ザッキンは藤田の勧めにより、1914年(大正3年)に結成された日本の美術家団体「仁科会(にかかい)」にも外国会員として出品を続けていました。また、妻であるヴィランティーヌとの結婚の際にも藤田を証人に立てたなど、二人の交流が深かったことがうかがい知れます。

ザッキンが親日家であったことも、彼の「メッセンジャー」が東京へ贈られる箏になった理由のひとつかもしれませんね。

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ところで、パリに「東京広場(Place de Tokyo)」という広場があるのを知っていますか。この広場は「パレ・ド・トーキョー(Palais de Tokyo)」という現代アートの美術館が目の前にあることからその名がつきました。パレ・ド・トーキョーは2002年にオープンした美術館ですが、その建物自体はあの1937年のパリ万博で、美術展示場として造られたものなのです。

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「トーキョー」の名前の由来は、美術館の展示テーマが東京に特化しているからというわけではありません。パリのシンボル「エッフェル塔」の正面に架かるイエナ橋を渡ったセーヌ川沿いの大通りが、かつて「東京通り(Avenue de Tokio)」と呼ばれていて、その通りに面して美術館が建っているためその名がついたのです。

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「東京通り」の名は1918年、第一次世界大戦でフランスと日本が同盟国となって戦ったために付けられました。しかし1945年、第二次世界大戦でフランスと敵対した日本の首都から、同盟国アメリカの首都にちなんで「ニューヨーク通り(Avenue de New-York)」へ改名されています。
それでも美術館と広場には「トーキョー」の名が残っていると思うと、遠く離れたパリの街にもなんだか親しみが湧いてきます。

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パリに東京広場があれば、東京にもパリ広場があります。中央大橋の佃島側のたもとに広がる、旧称石川島の名がついた「石川島公園」のなかに、パリの街並みを真似て石畳が敷き詰められた広場があるのです。これは1982年(昭和57年)、東京とパリが姉妹友好都市を提携した記念に作られました。

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東京とパリ。隅田川とセーヌ川という河川を抱えた二つの大都市のつながりの片鱗を、中央大橋で垣間見ることができます。メッセンジャーの見守る二つの川、隅田川とセーヌ川が、友好河川により情報交換をしながら、これからも美しい景観を保ってほしいと願います。

中央大橋
住所〒104-0033 東京都中央区 新川2丁目
駅・アクセスJR京葉線・東京メトロ日比谷線「八丁堀」駅 徒歩10分


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