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八丁堀》堀部安兵衛、伊能忠敬、写楽に芭蕉。夏目漱石に永井荷風まで。著名人たちも渡った? 亀島川で最古の「亀島橋(かめじまばし)」は今、新しい姿で八重洲通りをつなぎます。

2015/11/27  

東京メトロ日比谷線、JR京葉線 八丁堀駅A4出口を出てすぐ目の前にある八丁堀交差点を右へ曲がると、「亀島橋(かめじまばし)」が見えます。

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亀島橋は八丁堀と、かつて霊岸島とよばれた新川地区の間を流れる亀島川にかかる橋です。橋長32.4m、幅員25.5mの鋼上路アーチ橋で、欄干が低いため遠目に見ると一見橋ではなく普通の道路のようにも見えます。

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上流の日本橋川から隅田川へと至る亀島川は全長730mと短いですが、その上には上流から、霊岸橋、新亀島橋、亀島橋、高橋、南高橋の順に5本もの橋が架かっています。

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なかでも川と同じ名がついた亀島橋は2002年に架け替えがなされたため、現在は五本の橋のうちで最も新しい姿をしています。亀島橋には東京駅から八丁堀、現新川地区の霊岸島、そして中央大橋を渡って佃島へ至る八重洲通りが通っています。特に佃島に超高層住宅「リバーシティ21」が建設されてからは、リバーシティから東京駅へと至る大通りを支える橋としての重要性も高まっています。

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しかし、最も新しい姿でありながら、亀島橋の最初の架橋は江戸時代前期の1600年代後半とされ、亀島川の五本の橋のうちで最も長い歴史があります。そもそも「亀島」の名称は江戸時代についた名で、現在の八丁堀一丁目あたりに瓶(かめ)を売る人々が多くいたことからその地が「瓶島町(かめしまちょう)」と呼ばれることになったのが由来と言われています。

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「瓶島町」が「亀島町」となり、その名が橋と川にもつけられたようです。また、江戸時代の八丁堀は町奉行を補佐し、町の行政・司法・警察の役割を果たした与力・同心の組屋敷が並び、そして亀島川を挟んで対岸の霊岸島は、幕府の水軍であった御船手組(おふなてぐみ)の屋敷が並び「将監河岸(しょうげんかがん)」と呼ばれていました。

そんな亀島川周辺は、歴史に名を残す多くの著名人たちが暮らした場所でもありました。亀島橋のたもとにある案内板や石碑が、彼らとの関わりを教えてくれます。

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「忠臣蔵」で知られる赤穂義士の一人、堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)。1671年(寛文11年)新潟に生まれた彼は、赤穂淺野家家臣・堀部家へ婿養子に入りましたが、その当時住んでいたのが亀島橋の八丁堀側のたもと、亀島町と呼ばれた現在の八丁堀一丁目あたりだったと言われています。

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1701年(元禄14年)、武庸の主君、淺野長矩(あさのながのり)が江戸城内で吉良義央(きらよしなか)を切りつけ即日切腹、領地は没収となりました。武庸はその結果を不服とし、淺野家家臣たちに義央への仇討ちを熱心に語りかけ、そして翌1702年(元禄15年)、赤穂藩筆頭老・大石良雄(おおいしよしたか)を中心に47名の家臣が仇討ちを果たします。

仇討ち後、武庸たちはこの亀島橋を渡って主君・淺野長矩の眠る泉岳寺へ向かったともいわれています。

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日本で初めて全国測量を行い、近代的な日本地図を作成した伊能忠敬(いのうただたか)の没地も亀島川周辺でした。忠敬は1801年(享和1年)、56歳で徒歩による全国測量を始め、延べ3737日、約4万kmの測量を72歳で終え、「日本沿岸興地全国・実測録」を編纂しました。その後1814年(文化11年)から4年間、亀島橋の八丁堀側のたもとに住居を移し、この地で亡くなりました。

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10ヶ月で140点もの作品を作り出し、突如消息を絶った謎の浮世絵師、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)。その正体・生涯には不明な点が多いですが、どうやら彼も亀島川の近く、「八丁堀の地蔵橋」とよばれた橋のあった、現在の茅場町二丁目界隈に住んでいたようです。

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写楽の正体について、幕末の考察者・斎藤月岑(さいとうげっしん)が「写楽は江戸八丁堀に住む阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛」であると、1844年(天保15年)の「増補浮世絵類考」に記載しており、この説が有力視されています。

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写楽の案内板の隣には、江戸時代の俳人・松尾芭蕉の句碑があります。「菊の花咲くや石屋の石の間(あい)」。石屋の作業場のごつごつとした石材の間に、菊がつつましやかに咲いている様子をうたったものです。

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1693年(元禄6年)、芭蕉50歳の作品で、「八丁堀にて」と前書きが付いています。当時、亀島川をはじめ水路が張り巡らされていた八丁堀周辺は、船での運搬に便利だったために石屋が多くあったようです。

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一方、亀島川を挟んで対岸、かつて霊岸島と呼ばれた河岸には酒問屋街が広がっていました。上方から廻船(かいせん)と呼ばれる貨物船で運ばれてきた「下り酒」を独占的に仕入れることができたためです。現在も新川一丁目には当時から酒問屋たちの信仰を集めていた「新川大神宮」が鎮座し、「新川締め」と呼ばれる酒問屋独特の手締めが伝承されています。

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このように、亀島川は江戸時代、その周辺に江戸の著名人たちが居を構えていたのと同時に、物流・商業的な面でも重要だったのです。

それが明治に入ると、今度は旅の出発点へと変わっていきます。きっかけは、霊岸島の亀島川河岸に、現在の「東海汽船株式会社」の前身である「東京湾汽船」の旅客船発着所が設立されたことでした。

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夏目漱石、永井荷風、徳富蘇峰、宮沢賢治。名だたる文豪がここから千葉の館山や、大島への船旅に発ったそうです。特に漱石と荷風にいたってはその作品、『こころ』『町中の月』にこの霊岸島の発着所が登場します。こうして亀島川の流れる霊岸島は、旅の出発点として知られるようになっていきました。

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しかし、1907年(明治40年)に完了した鉄道国有化により長距離鉄道の整備が進むと、島嶼部への航路以外は旅の足としての旅客船の利用は減り、鉄道にとって代わられます。

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第二次世界大戦以降になると、今度は道路整備が進みます。それに伴い、江戸時代に水路として使われていた河川が次々と埋め立てられていきました。亀島川周辺では、「桜川」「楓川(もみじがわ)」「築地川」「京橋川」「外濠」「汐留川」などが、1960年代までに姿を消していきました。

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かつて江戸庶民の暮らしを支えた河川が、都市発展のために埋め立てられ、今は亡き橋の名がいたるところに残る東京。そんな中、亀島川は埋め立てから逃れ、そこには今も亀島橋が架かり、人々の生活を支えています。

「忠臣蔵」の堀部安兵衛、日本地図を作った伊能忠敬、浮世絵の写楽、俳聖・松尾芭蕉。文豪・夏目漱石、永井荷風、徳富蘇峰に宮沢賢治。誰もが知る著名人たちも渡ったかもしれない亀島橋はいま、新しい姿に変わり、八重洲通りをつなぐ大役を果たしてくれています。

亀島橋
住所〒104-0032 東京都中央区八丁堀1丁目
駅・アクセスJR京葉線・東京メトロ日比谷線「八丁堀」駅 徒歩1分


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