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飯田橋》江戸当時の面影を色濃く残す「牛込橋(うしごめばし)」と「牛込見附跡(うしごめみつけあと)」は、徳川家光(とくがわいえみつ)による外濠政策(そとぼりせいさく)の際に作られた、現代に残る重要な交通路です。

2016/09/27  

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JR総武線 飯田橋駅 西口の目の前に、神楽坂方面へと架かる「牛込橋(うしごめばし)」があります。

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「牛込橋」は橋長46m、幅員15m。横にかけた桁(けた)によって橋面を支える「桁橋(けたばし・けたきょう)」の構造で、主に鋼材でできています。

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「牛込橋」は1636年(寛永13年)に、松平阿波守家の二代目である阿波徳島藩主・蜂須賀忠英(はちすかただてる)によって「牛込壕(うしごめぼり)」の上に架けられました。当時の「牛込橋」は木造だったようです。

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この頃、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)は、外敵から江戸城を守るための外濠(そとぼり)を作る政策を行っていました。牛込橋はその際に外濠へ架けられた橋のひとつです。

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徳川家光は全国60家の大名に命令し、担当させた区画の外濠や橋などを大名の実費で作らせました。この外濠政策は、全国の大名にお金を使わせ、力を奪う為のものでもあったのです。全長14km程にも及ぶ巨大な外濠は、重機もない時代にも関わらず、わずか3ヶ月で完成しました。

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このように、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、建築工事や土木工事を行わせることを「天下普請(てんかぶしん)」といいます。江戸城自体も「天下普請」によって建てられました。他にも、神田川の開削などの河川工事や、道路整備も行われていたそうです。

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「牛込橋」と同時に、江戸城外郭門のひとつである「牛込見附(うしごめみつけ)」も作られました。見附とは、外濠へ架かる橋に門と見張り番所を置き、敵の進入を防ぐために人の出入りを監視する場所です。江戸城にあった見附は、主な門の数から「江戸城三十六見附」と呼ばれています。

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「牛込橋」の千代田区側には、「牛込見附」の一部である立派な石垣が「牛込見附跡(うしごめみつけあと)」として残っています。 ちなみに、「牛込見附」の門は「枡形門(ますがたもん)」でした。枡形門とは、四角(枡形)に周囲を囲み、二箇所に出入り口を設けたものです。敵が城内へ一気に侵入できないよう、二つの門を直角に配置する「内枡形」が採用されていました。

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この「牛込見附」は、「牛込橋」と同じく蜂須賀忠英によって作られました。蜂須賀忠英がつくったことを示すように「松平阿波守」と刻まれた石も発見されており、今でも石垣の脇に保存されています。

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時が経ち、開発工事のため1902年(明治35年)には大半の石垣が撤去されてしまい、多くの外堀が埋め立てられてしまいました。ですが「牛込壕」や「牛込見附跡」は姿を消さず、今でもこの地で当時の面影を色濃く残しています。城門の石垣がここまでしっかりと現存しているのは、「江戸城三十六見附」の中でも「牛込見附跡」だけと言われています。

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その後、「牛込橋」は災害や老朽化によって何度も架け替えられています。現在の橋は、1996年(平成8年)に完成しました。

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「牛込橋」の親柱(しんちゅう)には、「隅櫓(すみやぐら)」の飾りが。高欄(こうらん)の一部にも、隅櫓の形がありました。当時の江戸城を連想させるデザインです。

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徳川幕府が編纂(へんさん)した江戸市中の地誌「御府内備考(ごふないびこう)」によると、江戸城から牛込への出口にあたる「牛込見附」の一部をなす「牛込橋」は、“牛込口”とも呼ばれた重要な交通路でした。

現代でも多くの人々が往来する重要な交通路「牛込橋」と、昔から変わらない姿で在り続ける「牛込見附跡」。どちらも現代の街並の一部として馴染みながらも、江戸時代の面影と時代の流れを確かに感じさせてくれます。

牛込橋
住所〒102-0071 東京都千代田区富士見2丁目
駅・アクセスJR 飯田橋駅 徒歩0分


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