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清澄白河》松尾芭蕉が暮らしていた「深川芭蕉庵」の跡地。「芭蕉稲荷神社」は “石造りの蛙” を手がかりに祀られました。

2017/02/21  

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都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線 清澄白河駅 A1出入口を出て、清澄通りを背に西へ進みます。右手に見える萬年橋(まんねんばし)を渡り、1本目の路地を左へ入ると「芭蕉稲荷神社(ばしょういなりじんじゃ)」があります。

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深川界隈には松尾芭蕉にまつわる記念館や史跡が数多く残されています。芭蕉稲荷神社もそのうちの一つで、神社のある場所は芭蕉が暮らしていた「深川芭蕉庵」の跡地とされています。

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深川芭蕉庵は、門人の杉山杉風(すぎやま さんぷう)から芭蕉へ提供された草庵(そうあん)で、深川に移り住んだ1680年(延宝8年)から大阪で病没する1694年(元禄7年)まで、活動の本拠として使われました。紀行「おくの細道」の出発地点にあたり、また「古池や 蛙飛びこむ 水の音」などの名吟も当庵で詠まれたと伝えられています。

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「第一次芭蕉庵」と呼ばれる初期の草庵は1682年(天和2年)の「八百屋お七の火事」により焼失し、また門人によって再建された「第二次芭蕉庵」は大行脚にあたり譲渡されます。再び建て直された「第三次芭蕉庵」が終の住み処となりますが、芭蕉の没後は武家屋敷に取り込まれることとなり、幕末から明治にかけてはその場所も分からなくなってしまいました。

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深川芭蕉庵の手がかりは、1917年(大正6年)に東京を襲った「大正六年の大津波」によって見つかります。水が引いたあとに、芭蕉が大切にしていたという “石造りの蛙” が発見されたのです。同年、石像が出土した当地を芭蕉庵跡と推定し、由緒を残すために芭蕉稲荷神社が祀られました。現在、石像は「芭蕉遺愛の石の蛙」として芭蕉記念館に展示されています。

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芭蕉稲荷神社から隅田川方面へ向かって歩くと、芭蕉記念館の分館である「芭蕉庵史跡展望庭園」があります。隅田川と小名木川(おなぎがわ)の合流地点に位置し、園内には芭蕉の像や芭蕉庵のレリーフが設置されています。高台からは隅田川を行き交う屋形船や清洲橋を一望できるので、史跡とともに楽しむのも良いでしょう。

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「川上と この川下や 月の友」

「深川の末、五本松といふ所に舟をさして」を詞書(ことばがき)として詠んだ句です。小名木川沿いに並んでいた五本の老松、月見の名所でもあった「五本松」より、川上にいる友を想い詠ったといわれています。

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また、隅田川の川縁には「大川端芭蕉句選碑」という句碑が点在しています。句碑は9ヶ所にあり、この中でもっとも古い俳句が1680年(延宝8年)の「しばの戸に ちゃをこの葉かく あらし哉」ですので、いずれも入庵後の作品ということになります。ところで、日本橋で宗匠(そうしょう)としての地位を固めていた芭蕉が、なぜ深川へ隠遁(いんとん)してきたのでしょうか。

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それにはいくつかの説があり、点者(てんじゃ)生活に疑問と嫌気を持ち始めたから、あるいは内縁の妻である寿貞(じゅてい)と甥・桃印(とういん)が駆け落ちしたため、または大火によって家を失ったとも言われますが、一般的には俳諧の純粋性を追究するため、とされています。地位も名声も捨てた芭蕉は芸術としての俳諧を極め、後世「俳聖(はいせい)」として謳われることになります。

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芭蕉が深川に移り住んだのは37歳の頃ですが、俳号である “芭蕉” のルーツは深川芭蕉庵にあります。それまでは松尾桃青(とうせい)を号していた芭蕉。居を移して間もなく、門人から贈られた芭蕉の株を草庵に植えたところ、見事な芭蕉が繁ったといいます。このことから草庵は「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、本人も「松尾芭蕉」の俳号を使うようになったのです。

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深川に多くの足跡を残した芭蕉は、この地域の人たちにとっても親しみ深い存在です。森下駅構内では様々な画家によって描かれた芭蕉を見られるので、探してみると面白いかもしれません。往時に思いを馳せるのも、また各所の句碑を訪ねるのも、芭蕉ゆかりの地ならではの楽しみ方でしょう。

芭蕉稲荷神社
住所 〒135-0006 東京都江東区常盤1-3-12
駅・アクセス都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線 清澄白河駅 徒歩6分


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