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両国》毎年12月14日の討ち入りの日に行う、赤穂浪士と吉良家臣への供養「義士祭」。現代に残る『忠臣蔵』の舞台「吉良邸跡(きらていあと)」で垣間見る「赤穂事件」の真実とは。

2017/04/18  

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JR両国駅 東口を出て左に進み、突き当りを右に曲がります。しばらく直進すると見える「両国3丁目」交差点を渡り、南下します。3つ目の路地を右に曲がりしばらく歩くと右手に「吉良邸跡(きらていあと)」があります。

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「吉良邸跡」は、江戸時代前期の旗本・吉良上野介(きら こうずけのすけ)が当地を拝領された上屋敷跡で、赤穂浪士(あこうろうし)が討ち入りした『忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』で知られる「赤穂事件」の舞台となった場所です。
その昔、吉良邸は約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、「赤穂事件」の後は江戸幕府に没収され、跡形もなくなってしまいます。

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年を経て1934年(昭和9年)に、地元の有志らが当時の面影を残そうと旧邸内にあった「吉良公 御首級(みしるし)洗いの井戸」をきっかけにこの土地を購入し、翌年「吉良邸跡(本所松坂町公園)」として開設されました。
この井戸は赤穂浪士が吉良上野介の首を洗ったとされることからその名が付けられています。

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壁面は、平瓦の継ぎ目に漆喰(しっくい)を高く盛り上げて塗る海鼠壁(なまこかべ)が採用されています。多額の費用を要する技術で、高家(こうけ)の格式高さに相応しい造りとなっています。

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高家とは、旗本の家格から選ばれた江戸幕府における儀式や典礼を司る役職のことで、吉良上野介はその中でも肝煎(きもいり)と呼ばれる指南役として、有識故実や礼儀作法に精通した人物でした。身分は違うものの72万石の島津家や62万石の伊達家と同等の格付けだったといいます。

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1702年(元禄15年)12月14日に起きた「赤穂事件」。事の発端は約1年9ヶ月前の、赤穂藩主・浅野内匠頭 長矩(あさのたくみのかみ ながのり)が江戸城 松之大廊下で、吉良上野介を斬り付けた刃傷(にんじょう)事件にあります。長矩が斬りかかったのは、吉良上野介に「遺恨」があったためであるとされていますが、詳細は未だ不明となっています。

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敷地内の塀には、松之大廊下の刃傷事件の様子を描いた歌川豊国(うたがわ とよくに)作「忠雄義臣録第三」の浮世絵が展示されています。今にも斬りかかろうとしている描写で、当時の情景を生々しく伝えます。

その後、この事件を知った江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(とくがわ つなよし)により長矩はその日のうちに切腹に処せられ、それを聞いた赤穂浪士たちが主君の仇を討とうと奮起することになります。

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この事件を元にした数ある作品群の総称である『忠臣蔵』は美談として語り継がれているものも多いですが、未だ謎が多く、様々な憶測が飛び交っているのが実際のところです。一般的には主君の仇討ちとされていますが、中には、家臣たちの “再就職” が目的だったという説もあると云われています。

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もちろん、吉良上野介への恨みもあったと思われますが、むしろその時の彼らの心境は「浪人生活への恐怖」。何とか再び仕官する道を見つけることこそが最大の関心事で、そのための秘策が「仇討ち」だったといいます。
仇討ちに成功すると世間の大きな話題となり、自分たちを売り込む材料となる、まさに就職活動そのものでした。また、当時仇討ちは公的に認められた「権利」でもあり、殺人罪にはならず、いわば彼らにとって吉良上野介を討つことは絶好の機会だったのです。

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しかし、結局のところ彼らもまた処罰されることになります。それは、彼らの行為が「仇討ち」と認められなかったため。それまでの仇討ちは父母兄弟など親族のためが大半で、今回のような主君のためというケースは初めてでした。
その為、幕府でも議論を重ねた結果、正式な仇討ちとして認められず、最終的には将軍のお膝元である江戸城下で徒党を組んで押し込んだという罪で切腹となりました。

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敷地内には、「吉良家家臣二十士」と記された、討ち入りの際に命を落とした吉良家臣の供養碑があります。碑前には花やお酒が備えられており、毎年12月14日の討ち入りの日には、赤穂浪士と吉良家臣の両家の供養を行う「義士祭」や、主君のために命を落とした吉良家臣の冥福を祈る「吉良祭」が開催され、大変な賑わいを見せるのだといいます。

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敷地内に併設されている「松坂稲荷大明神(まつざかいなりだいみょうじん)」は、松坂町方面に御竹蔵(おたけぐら)を置いた当時、その水門内に鎮座していた「兼春(かねはる)稲荷」と元々あった「上野(こうづけ)稲荷」の2社を合祀(ごうし)したもので、赤穂浪士の討ち入り後に吉良邸の地所清めのためにこの地に遷移されました。

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赤穂浪士の討ち入りから300年以上の月日を経た今、当時の面影を残す場所は86分の1の大きさで残るのみとなっています。街並みや人々の暮らしが変わっても「赤穂事件」は史跡として残り、今にその情景を伝えています。

吉良邸跡
住所〒130-0026 墨田区両国3-13-9
駅・アクセスJR両国駅 東口より徒歩5分


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